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困っていることを解決する


"困っていることを解決する"

はじめに(1)

この話は10年以上前のことである。実名にする。時間が経過したことも理由の一つだが、それだけが理由ではない。当事者が実名で文書にすることを希望していたフシがあるからである。

私は、1991年、中小企業診断士になるための勉強を始めた。一回目の受験では一次試験で落ちた。二回目は、一次に合格し、二次にも合格した。この当時、二次のあと三次試験があった。受験者は、指導者(中小企業診断士)の指導を受けながら、二つの中小企業で診断をする。指導者は受験者の取り組み態度、報告書の出来栄えなどを採点するのであろう。多くの場合、欠席がなければ最低合格点が付くようである。私たちは測定機を作る会社とダイカスト方式で金属部品を作る会社を診断した。

ここでお話しする人は測定機を作る会社の社長である。神崎一郎(かんざき・いちろう)という。私は診断のあとも時々訪問し、お酒をいただきながら、いろいろなことを教えていただいた。
どんな中小企業といえども歴史がある。「事実は小説より奇なり」はまんざらウソではない。ここでは測定機を作る会社の歴史を述べながら、ちょっと大げさなタイトルであるが、「大学と企業とのあいだの距離」を述べたい。距離とは、もちろん物理的距離ではなく、そこに所属する者の精神的違いという意味である。誤解を恐れずに言えば、大学教授と社長との違い、である。

はじめに(2)

このブログを読んでくださる方には面倒なことであるが、あらかじめ知っておいていただきたいことがある。

第一。次の二つの会社が出てくる。この二つの会社は別の会社である。名前が似ているが、その理由はおいおい述べるが、別会社である。
   日本電子測器株式会社
        社長=村上幸雄
   電子測器株式会社
        社長=神崎一郎

第二。このブログの内容は敗戦の1945年から1990年ころまでに関係する。その時代と現在とはずいぶん日本人の考えが違う。私の書くことは「時代遅れ」かもしれない。それはそれとして、読んでくださる方々のご批判に任せたいと思う。

日本電子測器(1)

ある日、お酒を飲みながら、神崎一郎と私・左近とは次の会話をした。
   神崎:村上さんが生きているようだ。
      会いに行こうか。
   左近:是非。
   神崎:ただ、どこにいるのかわからない。
      どこかの老人ホームなのだろうが・・・

村上は東京大学物理学科を卒業し騒音計を作る会社(=日本電子測器株式会社)を経営した。戦後の復興に向けてさまざまの産業がおきた時代である。たぶん相当の利益が出たであろう。やがて同級生であった高橋秀俊(東京大学助教授。当時)がコンピューターを開発するにあたりその製造に協力した。

村上幸雄の側に日本電子測器を知る資料はない。
それに比べ高橋秀俊には資料がある。高橋秀俊の資料で村上幸雄を述べたい。この後、しばらくのあいだ、高橋秀俊著「コンピューターへの道」文芸春秋社にしたがって説明する。

日本電子測器(2)

1945年に戦争が終わった。
計算機というものがあった。歯車を組み合わせた精巧な機械である。現在、機械式計算機は博物館へ行かなければ見ることができない。ちなみに、筆者(66歳)は、どこで見たのか記憶はないが、かすかに見たという記憶がある。ひょっとすると博物館で見たのかもしれない。もちろん、使ったことはないし、触ったこともない。

高橋秀俊は「電気を使って計算機を作ろう」と考えた。最大の課題は電気を留めることである。電気はすっと流れる。その電気を回路のなかのある場所に留める必要がある。その位置を「1」と名付ける。別の場所に電気を留める。その位置を「2」と名付ける。次いで、キー「1」「+」「2」を順次押す。すると、電気回路のなかで位置「3」へ電気(というか、粒「電子」)が行き、それが人間の目に表示される・・・ことが必要である。このように考えると、どうやら10進法より2進法の方が簡単に回路を組むことができそうだということもわかってくる。

計算機の原理はできた。これをものにしなければいけない。

日本電子測器(3)

電子式計算機の開発は国家的なプロジェクトになった。高橋秀俊は開発の苦労を次のように書いている(ページ83~84)。
  「鳴り物入りで始まったTAC計画の、その後の進行は決して順調とは言えな
   かった。機械は東芝で作られはしたのだが、(中略)真空管を何千本と使
   うような大きな装置について全く経験がなかったということであった。
   つまり、ふつうの真空管を10個や20個使う機械を作るのと同じような
   考えで作ったところに一つの誤りがあった。」

このような中、日本電子測器という中小企業がコンピューター作りに関係することになる(ページ87)。
  「そのころ、私と大学で同期の村上幸雄君が日本電子測器という会社の社長
   をしていたが、電子計算機を作ることを考えていた。この会社は音響関係
   の測定機、主として騒音計を作っている会社だったが、(中略)私のとこ
   ろへ相談にきたのだが、われわれの電子計算機計画をさらに具体化する一
   つのきっかけになった。」

かくて、日本電子測器はコンピューターの製造を担当することになった。

日本電子測器(4)

東京大学理学部物理学科でコンピューターの研究をしている多くの研究者が日本電子測器へ製造を手伝いにいった。なかには社員に移籍するものもいた。

この後は私の推測である。
物理学科にくる学生は東京大学に入った者のなかでも飛びぬけて優秀な人たちである。彼らは「ノーベル賞をとる」ことが頭にある。ひたすら「真理」を究めようと考える。コンピューターを作ることが当面の目標ではあるが、その実現そのものより、そのなかを貫く「真理」に目が向いている。彼らはひたすら「真理」を追究した。出勤時間などない。昼とか夜とか、そういう区切りはない。お昼休み時間は決まっていない。おなかがすいたら食べる。もちろん制服などない。かくて、日本電子測器は企業でなくなった。東京大学の実験場になってしまった。

企業は、造って、売ることが仕事である。利益を得る集団である。誤解をおそれずに言えば、そのなかに非真理があっても良い。便利であれば良い。10ケタの計算ができるコンピューターでなくてもいい。3ケタの計算ができるもので良いのだ。その時代に役立つものを売り出すことが大事だ。

中小企業である日本電子測器の管理者・従業員に「真理」というウィルスがうつった。多くの人が「真理」と「利益」をはかりにかけると、「真理」が重いと考えてしまった。効率は無視された。

日本電子測器(5)

コンピューターの「真理」はエスカレートした。もはや小さな利益追究集団にはできない状態になった。高橋秀俊の話を聞こう(ページ146)。
 「残念ながら日本電子測器もまたそのような事態に対応する力はなく、計算機
  事業を諦めて、その関係のスタッフとノウハウを富士通に譲ったのである。
  一応、富士通としては、これによってエレクトロニックな計算機へ本格的に
  進む手掛かりを得たことになる。」

日本電子測器が参入した時期は、正確にはわからない(高橋秀俊の本に年次は記載されていない)が、前後の記述から推測するに、昭和29年ころであると推察される。
日本電子測器が撤退した年次もわかない。たぶん昭和30年代半ばまたは後半であろうと推察される。すわわち、5年以上、資金をつぎ込んだ。
高橋秀俊の本には書いていないが、このあと、日本電子測器は倒産した。当時の社員は、ほぼ3分の1がリオン株式会社(騒音機などのライバル会社。現在もこの方面の大手会社)へ引き取られ、3分の1が富士通へ移籍し、残り3分の1はあらたに電子測器株式会社を作った。

神崎一郎という人(1)

前回までは文献のなかの知識であり、または聞いた話である。今回から私が直接経験したことを話す。

第三次試験のため電子測器株式会社を訪問した。
社長・神崎一郎は自らの会社を「この会社は日本電子測器を引き継いだ会社である」と紹介した。その場には日本電子測器に在籍した社員が20名ほどいた。

会社は古いビルディングのワンフロアーを借り切っていた。フロアー全体が実験室のようでごちゃごちゃしていた。床一面に材料・部品・製品が置かれていた。ある物は段ボールのまま、ある物は新聞紙の上に並べられていた。テーブルの上に仕掛品とか試験機器が置かれていた。社長、営業、経理のデスクも窓際にあるが、片隅にちいさくあった。

フロアーの外見だけでなく、社風も違っていた。診断のあともときどきこの会社を訪問した。私が訪問すると神崎一郎は「テイラー展開はできるか?」と私に数学の質問をするなど、神崎一郎は研究者の頭であった。

神崎一郎という人(2)

神崎一郎の生涯を、本稿に関係する範囲で、紹介する。

  1933年  宮崎県で生まれる。
         九州大学工学部を卒業。九州大学助手についた。
  1963年  日本フェンオール株式会社へ就職(30歳)
         長野工場長、取締役技術部長
  1973年  電子測器株式会社の社長に就任
  2002年  死去

神崎一郎はだれからも好かれる人柄であった。 
こんなことがあった。
2000年5月8日、当社の最寄り駅(東京・中目黒駅)で5人が死ぬ地下鉄事故が起きた。神崎一郎は一つ前の電車にのっており、事故にあわなかった。当時、会社の経営は悪化しており、解雇を余儀なくされていた。解雇した元・従業員から神崎一郎を心配して「大丈夫ですか」と電話があった。
2002年10月に死去した。
通夜は千葉県の自宅近くの葬儀場で行った。九州大学関係者が大勢来ていた。研究室の若い後輩、一緒に合唱部で過ごした同級生など30名近くがいた。九州大学を離れて40年経過するが、神崎一郎の通夜・葬儀にやってきたのだ。多くは関東在住の人であろうが九州から飛行機でやってきた人もいた。驚きである。

電子測器(1)

繰り返しになるが、日本電子測器はコンピューター開発の資金に耐えきれず倒産し、その従業員のうち、3分の1ほどは、起業の道を選んだ。すなわち、電子測器株式会社を東京に設立した。

それから25年が経過していた。
1992年、私(たち)は診断士試験の第3次試験(=診断)で電子測器の診断を行った。社員のなかの経理課長だけが会社の実態を把握して会社の行く末を心配していた。他管理者は、「良い人」であったが、自分が何をしていいのかわからず、いわば漂流しているように見えた。創業以降の25年のあいだ、社風は日本電子測器株式会社(村上幸雄社長)のまま変わることなく継続したのではないだろうか。
最後の報告会で私は神崎一郎社長および管理者を前に「社員がバラバラです。社長は机をたたいて叱る必要があります」と発言した。

診断のあと、神崎一郎、診断指導者、受験者は二カ月ごと飲み会を開催した。神崎一郎はお酒の場で「左近は診断の報告会で神埼にたいし『私の命令を聞けとテーブルを叩いてどなれ』と迫った」と言う。神崎一郎はわかっていた。しかし「それが私にできない」と愚痴を言ったように思う。

電子測器(2)

電子測器は2回の経営危機があった。第1回は1996年である。第2回は2002年であった。

まず、第1回目の危機を述べる。
1996年8月12日10時、取引銀行M行から経理課長は「ある取引関係者が来ている。すぐに来ていただきたい」と電話を受けた。社長・神崎一郎は弁護士といっしょに行った。一人の男が銀行のなかでわめいている。その男を引っ張って、支店長、弁護士、神崎は一つの部屋へ入った。

電子測器は第1回目の破たんの危機を乗り越えた。「電子情報(1996年9月14日)」に当社に関する記事が掲載されている。記事の要約は以下のとおりである。
「8月12日に1回目不渡りを出した測定機器メーカー、電子測器は9月10日の
 支手決済を乗り切った。
 1回目不渡り翌日に説明会を開き、7月31日現在の支手全額1,800万円を
 支払い猶予してもらい、来年4月以降毎月1回、合計48回均等分割で弁済する
 という案を提示。決済日当日までに支手債権者全28社からの同意取り付けに
 成功した。」

電子測器(3)

債権者会議を終え、一社一社を口説くため、神崎一郎は「電子測器㈱再建計画書(1996年8月18日)」を作成した。その内容を吟味しよう。

目次にはまず現状認識があり次いで再建策がある。
現状認識を確認しよう。そこには売上高が減少したという現状認識が書かれている。売上高の減少について次のような分析がある。
「これは日本の経済の停滞による影響も大きいとは考えますが、当社の企業体質が新しい時代に即応できていないことが最大の原因だと考えます。」

次いで、再建策を確認しよう。再建するため、次の対応をとることが書かれている。
    大阪営業所の分離・独立
    甲府工場の閉鎖、など

神崎一郎の再建案は費用削減である。売上高向上はない。売上高向上策がないことは物足りないと言わざるを得ない。と言うのは、神崎は再建計画書のなかで「これ(=売上高減少)は・・当社の企業体質が新しい時代に即応できていないことが最大の原因だ」と言っているのだから、その「最大の原因」に食い込む必要があった。

電子測器(4)

電子測器は前回示した再建計画に基づいて費用を削減した。2001年の損益計算書は下記の結果であった。
         単位:百万円
    売上高   94
    売上原価  34
    販管費   59
    営業利益   0.7

再建計画にも書かれている通り、この当時、「経済の停滞」という外部要因があった。後年、「バブル崩壊」と言われる現象である。外部要因を論じても発展がない。ここではふれない。

内部要因に目を向けよう。内部要因は「新しい時代に即応できていない」であった。
電子測器は騒音計、振動計を生産・販売する会社である。このような商品は、大きな需要があるわけではないが、さりとて急激に冷え込むことも考えられない。レイチェル・カーソン「沈黙の春」は1962年に発刊されたし、環境マネジメントシステム(ISO14001)は1996年に制定された。環境に関する認識の高まりは当社に追い風であるハズである。
しかし売上高は減少し続けた。なぜだろうか?

電子測器(5)

ここでちょっと目先を変えて、富士通をみよう。

富士通信機製造株式会社(現富士通株式会社)は、終戦後、電電公社の下請け会社であった。電電公社から注文を受けて、その製品を作り、納品していた。
1959年、岡田完二郎が社長についた。彼は、もともと古河鉱業にいて、GHQから経営者として追放され、その後、宇部興産を経て、当社社長になった。彼は豊臣秀吉みたいな性格の人だったのではないかと私は想像する。彼は、幹部に対する年頭のあいさつで、「当社はコンピューターを開発する」と宣言した。
この宣言によって、天才的技術者・池田敏雄などの人材にも恵まれて、富士通は電電公社の下請け会社から脱却する。コンピューターを作る会社へ成長した。

岡田完二郎の下で働いた山本卓真は、「私の履歴書(日本経済新聞社)」のなかで、「岡田さんはコンピューターの技術的なことはわからなかった。説明にいくと、『うんうん』とうなずき、『それでいけ』と指示する。それは技術がわかったうえで指示しているのではなく、部下の熱意で判断したと思う」という趣旨を書いている。

電子測器(6)

なぜ岡田完二郎は富士通を電電公社の下請け会社から世界の富士通にできたのか、なぜ神崎一郎は電子測器を立てなおすことができなかったのか。もちろん、多くの要因がある。比較すること自体無理な話である。それを承知のうえ、比較する。

富士通・岡田完二郎にくらべて、神崎一郎は、技術が、わかりすぎるくらい、わかった。岡田完二郎は経営者(商売人)であった。神崎一郎は「大学の人」であった。これがすべてである。

神崎一郎は技術的知識を重視した。あるいは、そこから発想した。振動にしても、騒音にしても、その刺激を電気に変えて、その大きさ(電流値)で、振動・騒音のレベルを表示する。1960年代までは新規で便利な商品であった。しかし、1970年代、成熟した商品になった。新たな需要を引き起こすための改良(デザイン、使い勝手、価格など)が必要であったが、そのニーズはマーケットにあるにもかかわらず、技術から抜け出ることはなかった。社会(マーケット)という概念はなかった。

電子測器(7)

電子測器の経営成績は悪化の一途であった。

人間は、苦境にあると、その人が過去に成功した領域から解答を見つけ出そうとする。他の領域へ飛びだすことをしない。「ぬるま湯につかっているカエルが温度上昇に気付かず、やがて熱湯のなかで死ぬ」というたとえ話は、ちょっと違っており、ぬるま湯のなかで温度上昇へ対応するための解答を見つけ出そうともがき苦しみ、やがて熱湯のなかで解答を見つけ出せないまま死ぬのである。

神崎一郎にとって「大学」とか「学問」は居心地のよいお風呂であった。そのなかに入っていることにマチガイがないと思った。いやいや、マチガイだと気付いていたが、同時に、「学問」のなかに解答を見つけ出そうとした。ソニー、本田技研の成功の話をしていたしマーケティングの知識もあった。しかし、その活かし方が違った。

2002年、持病が原因でなくなった。神崎一郎のいない会社は破たんを選択した。

完全な消滅

村上幸雄と神崎一郎は、時代、環境、課題は違ったが、研究の波にのまれた。二人は企業を倒産に至らしめた。
日本のコンピューターの歴史を語るとき、高橋秀俊をはじめとして池田敏雄(富士通の技術者)など「英雄」が語られ、現在のスーパーコンピューターへつづく。歴史のなかに日本電子測器もあった。役回りは「捨石」であったかもしれないが。それを忘れてはいけないと思う。

私は神崎一郎の葬儀のあと、しばらくのあいだ、元気がでなかった。精神的に落ち込んだ。仏教では死者は輪廻転生すると教える。つまり新しい生命になるのだ。しかし、49日のあいだは宙をさまよった状態にあるといわれる。神崎一郎の「魂」が私を呼んでいるのではないかと思った。「気持ちをしっかりしなければいけない」と自分を叱咤激励した。あれから10年以上になる。気持ちは平静であるが、はたして、私は神崎一郎を乗り越えたであろうか、自問自答している。「乗り越えた」のであれば、神崎一郎に恩返しが出来たことになるが、いまだ未熟者である。

マーケティング雑感(1)

高橋秀俊は、従来の機械式計算機を見て、電気をつかって計算ができる機械を作ろうと考えた。それは、たぶん、ニーズなど気にしないまま、科学的興味が出発点であったのだろう。電子計算機というものが出来上がりつつあるころ(=まだ、コンピューターと言われていなかったころ)から、学者、企業、政府は「とてつもなく大きな商品に成長する」と気付いた。高橋秀俊の投じた一石は、一時期、アメリカIBMに後れを取ったものの、現在、富士通をはじめとする日本企業を世界一の座にのしあげる基礎であった。
科学にはこのように社会を変える力がある。事実、蒸気機関、時計、飛行機、原子力発電など科学は社会を変えてきた。

しかし、中小企業に携わっていると、商品開発はニーズから出発することが正しい道であるように思う。社会のなかで「困っている」ことを解決する商品・サービスを作ることが確実な方法であるように見える。
多くの人には見えない事象ではあるが、ある人には見える「困っていること」を解決するための商品・サービスは数多くある。

マーケティング雑感(2)

私が関係している中小企業には技術的に良い商品がある。しかし売れない。
あえて、「売れない商品は商品ではない」と考えたい。「売れる商品が商品だ」と考えたい。もちろんこれは商品の反面しか見ていない。批判があることを承知している。売れなくても良い商品は数多くある。しかし、ここではあえて売れる用品=商品と考えよう。
またこの稿には関係ないが、商品と製品の違いを言っておく。
    製品=工場にあるもの
    商品=お店にあるもの(または工場において出荷しようとしているもの)

営業畑の人たちと話すことによって多くの勉強をさせられる。彼らの話は、私にとって、当たり前の真理を改めて教えられる。彼らはドラッカー、レビット、コトラーなどが本にかいたことを具体的に話す。

と同時に、「どうしてマーケティングが広まらないのだろうか?」疑問に思う。

マーケティング雑感(3)

マーケティングが広まらない原因は何だろうか?

自分というものを土台として原因を考えると、私は自我から抜けきれないことが原因であると思う。
多くの経営者(およびビジネス・パーソン)も同じであろう。「自分が頑張ることによって難局は打開できる」と考えてしまう。「うまくいかないのは自分の努力が足りないからだ」と考えてしまう。はなはだしい場合、「うまくいかないのはあいつが悪いからだ」と考え、更迭し、あるいは退職に追いやる。
自分に原因があるのではない。「あいつ」に原因があるのでもない。その経営手法に原因があるため、空回りするのである。

マーケティング雑感(4)

結果(売れ行き)として現れる現象はそれにいたるプロセス(顧客ニーズの発見)に依存するといわれる。このことを多くの日本人は承認しない。プロセスに時間をかけない。お金をかけない。近視眼的に結果を追い求める。結果の是非だけが議論される。

プロセスを追究しなければいけない。それを意識しながら行おう。私が神崎一郎を超えるとしたら、そんな地道な心掛けであろう。

終わりに

このブログを読んでくださった方々に心から感謝する。
明日は今日の土台のうえにある。今日をしっかりやることが明日につながる。先輩の失敗をしっかり観察し、それを反面教師として、先輩を乗り越えることを「恩返し」という。私と接触することがある方は私を反面教師にして私を乗り越えてほしい。接触する機会のない方はせめてこのブログから何らかを読みとっていただけると幸せである。

                  テーマ「困っていることを解決する」終わり


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