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中小企業診断士から経営コンサルタントへの成長


中小企業診断士から経営コンサルタントへの成長

ブログを読んでくださる方へのあいさつ

ようこそお越しいただきました。このサイトを開いてくださり、ありがとうございます。

中小企業診断士を「経営コンサルタントの資格」という人がいます。それは誤解を招く表現です。中小企業診断士の資格をとれば、それだけで経営コンサルタントを職業にすることが出来るわけではありません。もっと踏み込んで言えば、知識が問われる資格である中小企業診断士と実践を旨とする経営コンサルタントは別の領域です。中小企業診断士が経営コンサルタントに成長するには多くの経験を通したプロセスが必要です。

私は中小企業診断士の資格をとり、25年ほど、経営コンサルタントをしています。ここでは私の経験を述べます。それを通して中小企業診断士が経営コンサルタントへと精神的な成長をする要因を述べたいと思います。自慢話にならないように、過度の謙遜に陥ることないように、できるだけ客観視して自分を語ります。

次回から「である」調で文章を書きます。

コンサルタントとの遭遇(1)

私が就職したのは1973年4月末である。実は、大学を卒業したのは一年前の1972年3月であったが就職はおくれた。
札幌にいた。4月に入り、このままではいけないと思った。新聞を見た。東京の会社の求人広告があった。そこへ履歴書を送った。特段、東京にこだわったわけではない。どこでもよかった。新聞広告の会社は東京に本社があり埼玉に工場のある中小企業であった。

技術職として採用された。入社すると新製品開発の担当になった。私には技術コンサルタントがついた。一ヶ月に2回ほど、鉄鋼会館(東京駅の近く)の一室で指導を受けた。私には技術コンサルタントのいう内容を理解することが出来なかった。
と言うのは、私、一応、工学部を卒業しているのだが、工学的センスはなかった。高校のとき、数学や物理はごく普通の成績であった。当時の世の中では理系に進むことが「カッコよい」ことであったため、時流に乗って理系に進んだだけであった。途中で文学部哲学科へ変わろうという気持ちが心をよぎったのだが、それもせずぐずぐずと金属工学科へ進み、卒業した。

コンサルタントとの遭遇(2)

技術コンサルタントは、巨大組織で設計畑をあるき、そこを退職した、65歳くらいの方であった。私の指導をするわけではなかった。巨大組織で実現できなかった案件を自分に代わって実施してくれる企業を探していたようだ。ご自分の言いたいことをひたすら私にしゃべっていた。技術コンサルタントは、私の経歴を見て、ご自分のしゃべることが理解できるだろうと思ったのだろうか、ともかく、一人の人間としての私(左近)など頓着しなかった。かくて、その開発案件は失敗に終わった。

その会社は、当時、従業員が70名であった。経営者は私に期待したであろう。しかし、失敗に終わった。
私の上司(課長および係長)は資金的にも、時間的にも、その他なんでも自由にやらせくださった。しかし成就しなかった。私は「自分はダメな男だ」と思った。私は失敗から学ぶことも出来なかった。なんとなく敗北感があったが、だからと言って、何か具体的な反省があったわけではなかった。

コンサルタントとの遭遇(3)

今になると、わかる。
反省という考えは高度なことだ。反省というのは、まず目標があって、次いで目標に向かって活動し、そのうえで、目標と到達点の差異を明らかにすることである。私には明確な目標を認識していなかった。会社は目標を私に与えた。しかし私の心は理解していなかった。それじゃ、ダメなのだ。心が入っていないとダメなのだ。

たとえ話をする。学校を卒業してソニーに入社したとする。しかし、それだけでソニーの人間になるわけではない。名刺に会社名・所属部門と氏名が書かれており、給料を会社からもらっているので、ソニーに所属していることは間違いないが、ソニーの人間になるには、すなわち「ソニーの心を持つ」には組織と個人のあいだにある壁を乗り越えなければならない。一方に井深大たちが作った精神がある。他方に苦境と矛盾がある。見えない将来のなかで自分をコントロールし部下を統率しなければいけない。それができる人をソニーの人間という。たとえ話はこれで終わりにする。

この後、中小企業診断士が経営コンサルタントに成長するプロセスを私の経験を通して語りたい。この話は「経営コンサルタント養成講座」で実践的に話すのであるが、さて、ここではブログという形でできるだけ丁寧に表現したい。

A社(受注)

私が中小企業診断士の資格を取得した1991年ころの試験は第三次試験があった。私たちのグループは二つの中小企業を診断した。その一つがA社であった。第三次試験のあと、社長から「うちの品質を改善するコンサルをしてほしい」と依頼された。

まず、当時の時代を述べる。
1985年、茨城県つくばで科学万博が開催された。私はリニアモーターカーに乗った。車体が浮き上がり、すっと動いた。飛行機にのっているような気持ちになった。科学万博にはいろいろ珍しいものが展示されていた。
1991年、野村証券が投資者にたいし損失を補てんしたことが問題になった。この事件は日本の企業がもたれあいで成り立っていることを社会に知らしめた。なぜもたれあいが悪いかといういと競争がないからである。すなわち、競争のない社会は発展がない、停滞につながるのである。資本主義を維持発展させようとする側からみるとゆゆしきことである。
この事件が直接の引き金ではないが、日本の景気は、それまでの拡大基調から、収縮に向かう気配があった。

これからお話しするA社は巨大企業の下請けであった。典型的な「もたれあい」であった。下請けは、営業部門を持つ必要がないし、巨大企業の戦略に乗っていれば安泰である。メリットも大きい。

A社(商品)

A社はダイカストの部品を生産する会社である。

ダイカストを説明する。
そもそも金属部品を作るには二つの方法がある。大きな金属の塊を削り出して形を作る方法と、溶かしたうえで金型に流し込み形を作る方法である。前者を切削加工という。旋盤、フライス盤、ボール盤などの機械を使う。後者の一つにダイカストがある。ダイカストという方法で金属部品を作ると、大量に、安い価格で部品ができる。自動車・産業ロボットを含め、多くの産業分野で使われている。

問題もある。
第一に、鉄鋼はダメだ。アルミニウムとか亜鉛とか、比較的低い温度で溶ける金属でなければ工業的にはできない。低い温度で溶けるということは常温で柔らかいのである。すなわち強度の弱いことが欠点である。
第二は現実的な問題だ。高温に溶かして金属を、やはり高温にした金型に入れ、金型を冷やす。すると、金型のなかで金属が冷えて、金型に彫り込んだ形ができる。このとき、ドロドロに溶けた金属が低い温度にさがり固まるあいだに空気を巻き込むのである。内部に空気が入っていると金属部品は強度が極めて弱くなる。

A社(社風)

中小企業診断士が経営コンサルタントになるプロセスを説明することが本稿の目的であるが、もう少しこの会社の内容につきあってほしい。

ダイカストの生産には熟練者が必要である。製品の形状、ダイカスト・マシンの各部分の温度、材料の出来具合、その日の天候などが絡み合って金属に影響する。すなわち、金属部品の内部の空気だまりを巣というが、その巣ができる・できないに多くの条件が微妙に関係する。

熟練者はノウハウを公開しない。というか、体で覚えたカンなので、言語にできないのだろう。熟練者は中高年齢者である。働き口を確保するためノウハウを教えないこともある。こんなことがあった。
二直(通常の昼の勤務とそれが終わった後の夕刻から夜半までの勤務)であった。昼は熟練者が働き、夜は昼勤と同じ機械・同じ材料を引き継いで新人が働く。同じ8時間勤務である。出来高は同じである。どういうわけか、昼勤の不良率が低い。夜勤は高い。私は「やっぱり熟練者のほうが良いですね」とお世辞を言いながらも、その技術を新人(夜勤)に伝える手立てをした。しかし、ダメだった。

これは後で聞いた話である。
熟練者(昼勤者)が新人(夜勤者)に替わるとき(17:00)、熟練者はダイカスト・マシンの操作盤を触り、わざとで条件をかく乱し、黙って帰宅する、と。

A社(私の限界)

前回話したことは、中小企業診断士の資格を持っている人は「まさか」「そんなことないだろう」と思うだろう。

私も同じであった。実態を知らなかった。
熟練者は、体で自然にしみこんだノウハウなので他人に言語で話すことができないという側面と、自らの意思で開示しないという側面とがあった。ノウハウを開示したら、それを活用して若い者が職場を乗っ取る。自分は追い出される。そんな恐怖もあったであろう。「自分の知識を新人が知ったら、中高年齢の自分は会社から追い出される。家にはまだ収入のない息子がおり、高齢で医者にかかっている妻がいる。辞めるわけにはいかない」と思っている作業者もいただろう。

私(経営コンサルタント)は彼らにとって得体の知れない者であった。私に反抗してはいけない。さりとて心を許す相手ではない。社長は私に「一升瓶を持って行って、寮に寝泊まりし、従業員と酒を飲みながら語り合ってください」と言った。私は実行することを躊躇した。いまだ知識の領域にいる人間であった。

A社(私の限界)

一年間の契約期間が終わった。契約金1,000万円の半額ほどを請求したと記憶している。コンサルを始める前の約束(不良率半減)から大幅にかい離する結果だったためである。後味の悪い結末であった。

私が知っていた品質管理は、19世紀のアメリカにあって、シューハートが始めた近代的なそれであった。すなわち、現場の実態をデータに表し、問題点を見つけ出し、改善し、作業者を教育することによって品質を高める技術であった。
しかし、アメリカから輸入された近代的な品質管理は、日本の企業において一つの有効な側面をもつが、それだけではダメだった。多面的に企業を見なければいけなかった。私は気付かなかった。
知識で人を動かすことはできない。このコンサルの失敗によっても、いまだ壁を乗り越えるに至らなかった。

ダイカスト会社の最後になるが、この会社の管理者にはお世話になった。ある工場長にはご自宅に泊めていただきご馳走になった。別の管理者から「対象が悪かったです」と慰めていただいた。熟練者が生産する工場だけでなく、新しい生産ラインもあったのだが、そちらを担当すれば近代的品質管理が有益であっただろうという意味である。

B社(きっかけ)

前回までダイカスト会社のコンサルについて話した。ちょうどこのころであった。障子紙を生産する会社のコンサルを依頼された。

日本家屋は、徐々に洋風になっているが、昔の家の内部はふすまと障子で区切られている。ふすまはややしっかりした仕切りである。そこに松竹梅とか、鶴亀とか、あるいは山川の絵が描かれている。一方、障子とは紙を貼った木枠の仕切りである。

伝統的な日本家屋が少なくなりつつあるとは言え、その会社は日本全国の40%のシェアを持っていた。
この会社の社長夫人(専務取締役)は、販売拡大のため、JISマークをとりたいと思った。県の中小企業支援組織から派遣された経営コンサルタントが指導した。しかし、3年を経過してもいまだとれない。経営コンサルタントは「まだ審査を受けるに至らない」と言う。

社長夫人は品質管理のセミナーを受講した。終了後、講師に「もう3年を経過しているのに、まだとることができない。早くとりたい」と相談した。講師は私を指名した。かくて、私が指導することになった。

B社(指導)

このコンサルは、私にとって、楽な仕事である。私にはJISマーク表示制度に関する知識と経験があった。

あらかじめ審査登録機関は審査要領を公表する。審査要領を満足する施設・設備があり、原材料を使っており、生産工程が適切であり、製品が品質基準を満たしているのであれば、審査登録機関は会社にたいしJISマーク表示を許可する。
この会社には審査要領を満たす施設・設備があり、原材料を使っており、工程で作っている。製品も品質基準を満たす。

残す課題はほんのちょっとである。経営者および社員は審査の場で審査員の質問に答えるのであるが、それができれば大丈夫である。すなわち、社内規定・作業標準書を作成し、経営者および社員が自分のやっている仕事を認識すればいいのだ。簡単に見えた。

B社(解雇)

数カ月を経過しただろうか、私はB社から突然解雇された。雇用関係があるわけではないから解雇という表現はマチガイだが、ともかく「今日で終わりにしたい」と言われた。B社・社長は理由を言ったかもしれないが、その瞬間、私は何が何だかわからなかった。「頭が真っ白になる」という表現が当てはまる状況であった。

あれから25年以上が経過した。私が想定する理由を述べる。
私にたいし想定外の高額のお金がかかった。これが理由であった。その会社へ行くには、新幹線に乗り、電車・バスに乗り、ホテルに泊まって、翌日、訪問する。私はこの費用をいただく。コンサルした日は相当の報酬をいただく。これに比べると、県から派遣される経営コンサルタントは、交通費、報酬とも、格段に安い。

私は報酬に関し特段の執着はなかった。独立する前、コンサルタント会社に勤務していたので、その会社が請求する金額が相場だと思っていた。しかし、コンサルタント会社が企業へ請求する報酬は極めて高い。このような金額を請求してはいけなかった。

B社(報酬)

B社から離れて、一般論として、経営コンサルタントの報酬に関する考えを述べる。

私は、大企業であれば一日当たり20万円、中小企業であれば8万円と心のなかに決めておいて、実際にはコンサルを開始する前、経営者との話し合いで報酬金額を決める。

大企業において、私が「一日当たり50万円です」と言えば、経営者は「わかりました」と言うだろう。中小企業といえども、私が「一日当たり20万円です」と強く主張すれば、社長は「わかりました」と言うだろう。その場で経営者は「そんなに高額であれば、結構です」とは言わない。

私が極めて優秀な経営コンサルタントであって、私の指導によって会社が増収増益になれば経営者からの文句はでない。私の働きによる成果が乏しい場合、「解雇」される。50万円がダメではないが、高額の報酬をいただくことは、特殊な事業がない、普通の会社では経営コンサルタントのほうが「しんどい」。分相応の報酬を設定するほうがいい。

B社(報酬2)

今回もB社から離れて、一般論として、私の考えを述べる。ただし、経営コンサルタントの報酬は高度な理論が必要だ。まず価値valueと価格priceの関係を整理しなければいけない。その実現の時間的ギャップがからんでいる。そのうえで、価値を見積もる方法を開発しなければいけない。深い問題である。ここでは、理論的な面を簡単にお話し、後日、折に触れて、私の考えを説明していきたい。

経営コンサルタントの報酬は成果に応じて支払われると考えやすい。経営者は、その成果が高ければ高額の報酬を支払い、成果が低い場合、低い報酬を支払う、と。
報酬はコンサルティングが始める前に決まる。成果は一定の期間が終わった後で明確になる。時間が違うのである。経営コンサルタントは、仕事に先立ち、「○○円、いただきます」と提示し、経営者はいまだ実施されない成果に対するコンサルの値段を決める。合意したあと、経営コンサルが始まる。

一回だけの仕事だけの場合、偶然に決まる。しかし、私たちは、継続して、ビジネスとして、コンサルを行う。
経営コンサルタントは、仕事を繰返し、じょじょに自分の価値(成果の量)を知るにいたる。社会的に妥当な自分の価値を知る。結局、自分の価値に見合う価格に収れんする。かくて、適切な水準の価格に落ち着き、社会と経営コンサルタント(又は、その会社)はwin-winの関係にいたる。

転職(その1)

話は前後するが、製造会社(以下、C社という)に16年間勤め、その後、経営コンサルタントへ転職した経緯を述べたい。

私の話をする前に言っておきたいことがある。
私は転職を勧めるものではない。「転石、苔むさず」は真理だと思う。つるつるした石に魅力はない。その上に苔がむしてこそ、石としての、風格が出る。苔がむすには長い年月の辛抱がいる。人間が職業人になるには組織と個人との矛盾を克服しなければいけない。自分の勤める会社を「わが社」と言えるようにならなければいけない。

私が生きた時代は日本の産業の上昇期にあった。私たちは「どこで暮らそうが、何をしようが、あるいは何もしなくても、餓死することはない」と思っていた。楽観的であった。しかし、今は違う。学校を卒業した後、就職できるものの比率が低い。アルバイトで職についたところで、安定しない。正規社員で大会社に入社しても、その仕事にやりがいはない。現実に、目の前に、餓死の危険がある。

経営コンサルタントほど、不安定で、かつ低い収入の職業はない。経営コンサルタントへの転職は危険である。

転職(その2)

先日、C社に勤務していた人が集まり、飲み会を開いた。OB・OG会である。この会は毎年開かれているようだが、私は2014年の会に初めて参加した。お酒を飲み、話をしていると、当時の自分がどんな人間だったのかが、他人の話から、わかってきた。その話も参考にして今回お話しをしたい。

私はC社において目標を持つことが出来なかった。今振り返ると、このような表現しか、できない。とにかく、目の前の仕事はしていたが、上司も、同僚も、私に距離を持っていた。まじわることができなかった。浮いていた。

C社の社長は株式を証券市場に登録(いわゆる、上場)する目標を設定し、そのための活動が始まった。係長以上の社員が本社会議室に集められた。「上場するためには、それにふさわしい社内管理体制が必要だ。みなさんは認識を新たにしてほしい」という趣旨であった。
ひな壇という表現は適切でないが、社長・専務および幹事会社(上場を取り仕切る会社。具体的にはその会社に関係する公認会計士など)が私たちの前に座っていた。会議の始まる前、総務課長はひな壇の人を紹介した。その中に「○○さんは中小企業診断士です。このあとの上場のための活動において、わからないことは相談してください」と紹介される人がいた。私はその人を見た。貧相な人に見えた。

転職(その3)

株式を上場するには上場基準を満たす必要がある。その基準の一つに社内体制がある。社内規定に沿って経営されている必要がある。

社内規定を作るプロジェクトのメンバーの一人に私が指名された。経営基本、経理、販売、購買などの規定を作るのである。そのなかに生産があった。生産に関する知識が私に期待された。
私以外のメンバーは社長室(上場のために作った部門)の係長、経理部長、総務課長、総務社員であった。私と意見を異にする局面があった。他メンバーは、前回話したひな壇に座った人たち(公認会計士、経営コンサルタントなど株式上場のプロ)と経常的に接触し、広い知識を持っていたが、私は接触する機会がなく、自分の考えだけで発言したため、であろう。

ある日、本屋さん(秋葉原の書泉であったと記憶する)へ行った。ぶらぶら書棚を見ていた。目の前に「中小企業白書」があった。何気なく、それを手にとり、ぺらぺらとページをめくった。中小企業と大企業の週休二日制の導入比率を表す棒グラフがあった。中小企業は30%であり、大企業は80%を超えていた。そのグラフを見て、「自分は中小企業のための経営コンサルタントになろう」と決心した。

転職(その4)

試験勉強は楽しかった。二回目の試験で合格した。合格するとともにコンサルタント会社へ転職した。

コンサルタント会社では原価低減を担当することになった。分厚いテキストを与えられた。それを読んだ。一般の書籍とは違っていた。極めて具体的である。会社の設計、購買、製造などの分野のさまざまの局面において、その機能を洗い出し、それぞれの機能に対する原価低減のための見かたを、微に入り細をうがって、網羅していた。
そのコンサルタント会社の客は大企業であった。大企業の購買とか設計部門に行って、原価低減を指導し、いずれの会社においても約25%の原価低減案を作成した。その案を受けて、実際の原価を下げる活動をする場合もあるし、会社にゆだねる場合もある。それは別契約であった。2年間行った。

コンサルタント会社に勤務するとともに、中小企業診断士として研究会に参加した。研究会には大企業に勤める人を始め、いろいろな人が参加していた。お互いに「○○先生」と呼び合っていた。私には不自然に見えた。そこで話し合われ討議される内容は抽象的であった。具体的な討議および改善の対象はなかった。私は「ここに出席しても勉強にならない」と見切りをつけた。

転職(その5)

コンサルタント会社の退職時、トラブルもあったが、きっぱりと辞めた。

 一つの思い出を語ることを許していただきたい。20年以上前の話なので、しゃべっていいと思い、その当時を正直に話す。
 大きな自動車会社の原価低減のコンサルをした。成果が上がった。会社は私たちのために慰労会を開いてくださった。「先生」などと言われて、お酌をされ、にぎやかにしゃべった。
 購買担当の一人が私の前に座り、お酌をしてくれた。彼と次の会話をした。
   購買:原価低減はどこまで行くのですか?
   左近:どういうこと?
   購買:私たちが外注会社に「今年は2%の原価低減をしてくだ
      さい」というとそれに見合う額のプライスダウンになり
      ます。
   左近:そりゃ、モデル・チェンジになったとき、高い価格に設定
      するから、毎年、下げることができるのだろう。
   購買:違います。自動車はモデル・チェンジしますが、なかの
      部品は同じです。
      その同じ部品を毎年毎年下げてくるのです。
私は酔いが醒めた。私は「この購買担当者が毎日折衝する外注会社のためにコンサルタントになったのではないか。ここに座っているのはマチガイだ」と思った。

転職(その6)

もうひとつ、お話ししよう。
私は、コンサルタント会社へ入った時から、「2年で辞める」ことを決めていた。実際に辞める3ヶ月前から自分の独立の準備をひそかに始めた。すなわち、私がコンサルしている会社の社長に「私が独立したら私が御社のコンサルをしたい」と申し出た。社長は一様に「左近先生。是非、お願いします」と言った。
コンサルタント会社を辞めた。あらかじめ約束しておいた社長へ電話をした。電話口に出た事務員は、30秒ほどの保留のあと、「社長は留守です」と言う。私は「あ。今日は外出だ」と思った。二日ほどあと、あらためて電話した。同じである。さらに二日ほどあと、電話した。同じ対応である。私は「ああ。自分がバカだった」と知った。

経営コンサルタントにとって客の確保は決定的に重要である。私はスムーズな滑り出しを期してひそかに申し出たのが、それは役に立たなかった。
こんな話を聞く。大企業に勤めていて、その会社の業務の一部を受注することを約束したうえで、独立した、と。うらやましい。私はダメだった。

D社(きっかけ)

私が経営コンサルタントになったころ(1990年初期)は、一般にトヨタ生産方式の指導やISO9001認証指導、5Sなど、経営コンサルタントとしての仕事はいっぱいあった。

ここではD社のことを話そうと思ったため最初から脱線するが、経営コンサルタントの仕事が少ない現在(2014年)は、当時と比べて、何が変わったのか、私の考えを述べたい。

1990年代初期、経営戦略という考えはなかった。あらゆる経営課題は各部門の責任で処理されるべきであった。顧客とのあいだの課題は営業部が改善するべきであったし、製品の課題は設計部が改善するべきであった。私は生産部門にいたので、私の立場でいうと、「まず品質(Q)を向上し、次いで納期(D)を速めれば、結果として原価(C)が改善される。それによって会社の利益が向上する」と考えられた。「QDCを改善する」ことは経営に有効であった。ちなみに、QCDという用語(Q→C→D)はマチガイである。
現在、経営戦略という言葉を使うか否かは別だが、どんな経営案件であろうと、経営戦略との関係で議論される。眼前の課題は会社全体のシステムのなかの一こまである。

個別であり、部門特有であれば、経営コンサルタントの「専門」は有益である。しかし、会社の活動をシステムとして理解し、そのサブシステムを改善しようとする場合、全体システムは内部管理者のほうが詳しい。外部の者には手がでない。現在の経営コンサルタントは自らの戦略を立て直す必要に迫られている。

D社(あらためて、きっかけ)

まず、背景を述べる。
KAIZENというタイトルの本がニューヨークの出版社からでた。日本人である著者は1962年日本でD社を設立した。彼は自ら海外で講演するとともに、海外から日本的生産を学ぶためのツアーを企画運営した。
私が経営コンサルタントになった1990年代初期には、海外からトヨタ生産方式の見学者を受けいれていた。D社は、トヨタ生産方式を実践している会社を紹介してほしいと思い、かつ、外国人見学者に説明するコンサルタントがほしかった。

名古屋に生産管理を勉強する会があった。私は、何がきっかけであったか覚えていないが、独立する前から会合に参加するようになった。すなわち、私は埼玉に住んでいるので、毎月1回、名古屋へ通った。この会の指導的役割をはたしていたMH氏から「D社がコンサルタントを探している。D社は東京にあるから、行ってみなさい」と言われた。

かくて、私はいかにもトヨタ生産方式の専門家のフリをして、D社を訪問した。KAIZENの著者にもあった。白髪で小柄な紳士であった。

D社(失敗)

私はD社が委嘱する経営コンサルタントと名乗った。第一日目、イギリス、ドイツなどの大企業からやってきた外国人に東京でトヨタ生産方式を講義した。第二・三日目、名古屋近辺のトヨタ自動車下請け会社を案内した。

この企画のためにD社に何度も通い、D社の担当者(女性)と打合せをした。当然仕事として通ったのだが、次第にその担当者が好きになっていった。あるとき私は思い切ってプライベートな電話をした。どのように話したか、覚えていないが「仕事のことで、会社のなかでお会いします」と言われたことは、あれから20年経つが、今でも覚えている。私の妄想は一瞬にして打ち砕かれた。
その後がある。
その電話内容がD社全体に伝わった。仕事のことで電話すると、電話に出た他の女性から「何のためにいらっしゃるのですか?」と言われた。その後一切D社の仕事を受けることができなくなった。自業自得であった。

D社(失敗から教訓へ)

D社の女性担当者に女性に心を奪われ、仕事を失った。これほどではないが、似たようなことはたびたびある。

仕事を抜きにして、その会社の人と外で会うことによって、多くの情報を得ることができる。さすがに、若い女性一人を連れ出すことはできないが、私は部長とか、課長とか、夏であればビールを飲む機会をつくるし、冬であれば日本酒を飲む機会をつくる。
そこで得た情報には、人物評価もあるし、会社の課題もあるし、仕事の話もあるが、どのような内容であれ、けっして他人にしゃべってはいけない。相手は、私の口が堅いと思えば、いろいろ話してくれる。逆に、信用できないと思えば、何も話してくれない。会社外で入手する多面的な情報は仕事(コンサルティング)に有益である。

中小企業診断士が経営コンサルタントに成長するうえでこういった会社外の情報交換を覚えることは有益である。

執筆(その1)

中小企業診断士の試験勉強しているときは漠然としていたが、合格通知を受け取った瞬間、独立することを決心した。その準備でもあり、自分も好きなので、本を書きたいと思った。

名古屋に生産管理の勉強をしているグループがあることを知り、そこへ毎月自費で通った。そのグループは日刊工業新聞社を含むいくつかの出版社にコネがあった。毎月、雑誌の一つのコーナーに執筆していた。

名古屋のグループは生産管理に関するムックを作った。ムックとは単行本と月刊誌との中間を狙った本である。逆引きツール集とも言うべき内容である。これが好評であった。出版社は品質、納期、安全など分野ごと単行本を出版する話をグループに持ってきた。
私は品質の取りまとめ役となった。グラフとか、特性要因図とか、連関図とか、分担を決めて執筆した。
結果的には出来栄えの悪い本になった。その理由は私にあった。第一は執筆者の意図を統一することができなくて章ごとに「温度差」のある内容になったことである。第二に私自身が担当箇所(品質展開)に関する経験が不十分でありかつ執筆に時間をとれず推敲の足りない原稿になったこと、である。

私の処女作は出来の悪いものであった。これは、今になって思うと、執筆に焦った(十分な時間を確保しなかった)ことが根本原因である。この後も、執筆の機会は与えられたが、出来栄えは悪かった。私が現時点でも二流の経営コンサルタントであることの一因であった。

執筆(その2)

前回、「私の執筆は出来栄えが悪かった」と書いたが、成功もあるので、今回はその経験を書きたい。

名古屋のグループは正式な学会になった。1995年、東京の出版社から、学会の東京支部は「当社の30周年記念事業の一つとしてまとまったものを作りたい。協力してもらえないか」と依頼された。私が編集委員長に指名された。「生産管理実務便覧」という書名に決め、二人の中小企業診断士(いずれも、現在、大学教授をしている)と諮って、構成を定め、目次を作り、執筆者を指名または募集した。執筆者は約40名になった。数名の大学教授はいたが、他は中小企業診断士であった。
これは良い本になった。構成も良いし、内容もそれぞれの分野を網羅しているし、装丁も良い。現在も多くの大学図書館に置かれている。

なぜ、この本は成功したのか。
第一に出版社も編集者(私たち)も気合が入っていた。私のことで述べる。私は編集委員長だった。原稿を査読する立場にあった。不適切な原稿は書き直しを要求した。書き直しに同意しない執筆者には掲載を断り代役を立てた。
第二に構成・目次が良かった。従来の工場で行われる生産管理の枠を破り、経営戦略の視点から構成をつくり、それぞれの構成のもとで章を配置した。経営戦略が脚光をあびる時代にふさわしいものであった。

執筆(その3)

私は「生産管理実務便覧」を作っている時、「これを10年後に改訂しよう。世界一の生産管理便覧にしよう」と思った。

出版社は倒産した。倒産の理由は「生産管理実務便覧」にはない。ここで詳細を述べることは控える。その便覧を制作した会社も倒産した。制作会社の社長との仲はつながっていたため、「改訂版を出したい」と相談した。2009年、ある出版社を紹介された。その新たな出版社は「是非、協力したい」と言ってくれた。
編集者二人に「改訂版を出したいので、協力してほしい」と打診した。一人が応諾してくれた。かくて、私の改訂に対する考えを述べ、彼と二人で構成を決め、目次を作り、執筆者を探した。改訂版の執筆者は大学の教員が半分近くを占めた。他は中小企業診断士であった。

結果的には、あまり出来栄えの良い本にはならなかった。私の力量不足が原因である。便覧を作っているとき、編集者(大学教授)から「左近さんがこれだけ大きな本を作ることは、年齢からみて、これが最後だ」と言われていたが、その言葉が私の心をうつろに何度も何度も響いた。出来上がった便覧を前にして数日失意に落ち込んだ。

執筆(その4)

この稿は中小企業診断士が経営コンサルタントに成長するにあたり、その要因を洗い出すことが目的である。最も適切な材料は私自身であるため、私の経験を述べてきた。今回はまとめとして、マスコミで有名な知人と無名な自分とを比較して執筆に関する考えを述べたい。

知人は、中小企業診断士の資格を持っているが、今やテレビ・書籍で有名な方である。彼が有名になる前、最初に彼に会ったとき、「めずらしく、若い人なのに、礼儀正しい人だ」と思った。まさか有名になるとは思わなかった。
彼はある国の経済を分析した。その方法は斬新であった。盛衰の予言は当たった。極めて多数の人が彼のブログを読んだ。それが出版社の知るところとなり、書籍を出し、爆発的に売れ、やがてテレビにでるにいたった。彼はいまだ世の中にないことを読者に見せた。

彼に比べて私は陳腐である。生産管理の方法は、どんなにこねくり回してみたところで、新規なものは出てこない。もちろんこの生産管理のなかで女神は私に飛躍のチャンスをくれたのだろうが、それはマスコミで有名になる手ではなかった。
すなわち私はマスコミで有名になる人生ではない。それを是認し、自分の能力が生かされる領域を探すべきであろう。

E社(予備知識)

まず、ISO9001に関する予備知識を提供する。

第一次世界大戦が終わった(1918年)。アメリカ・ペンタゴンで会議が行われた。「アメリカがヨーロッパ戦線に送った物資の品質Qualityが悪かった。品質を上げなければいけない」が議題であった。人類が組織的に品質を議題にした最初である。
このあと、二つの流れができた。品質保証(Quality Assurance)と品質管理(Quality Control)である。前者は発注者が仕様を受注者に提示し受注者(納品者)が検査をするシステムの構築である。後者は、統計学を使って生産現場の解析をし、不良をすくなくする技術である。

第二次大戦が終わった(1945年)。GHQは「日本の産業を興すには品質が大事だ」と思い、アメリカ式品質管理を指導するため、経団連会長に品質管理の必要性を説いた。経団連会長からの電報を受け取った日本の大企業の経営者は焼け野原の東京に集まった。その教えに従って品質管理を行った。1970年代、品質管理も要因の一つとなって、日本の製品が世界を席巻するにいたった。一方、ヨーロッパ(およびアメリカの)産業は凋落が深刻であった。
イギリスをはじめとする国々は品質保証を土台にした品質マネジメントを規格化し、企業に勧めた。あれよあれよという間に、それは国際的規格ISOになった(確か、1987年、ISO9001規格初版が出た)。

日本の多くの企業は「そんなもの、役に立たない」と評価した。しかし、「ISOがないと輸出できない」という情報(デマであった)が流れ、1990年ころから、日本の大企業はISOの取得に走った。

E社(私の取り組み)

私は名古屋の生産管理を勉強する会に出席していたのだが、そのなかの一人の先輩MH氏から「研修に出席しなさい」と勧められた。1990年ころ、ISO9001の知識を得るには、イギリスへ行くか、あるいはイギリス人が日本で開催する研修会に参加する方法があった。前者はムリだ。後者の受講料金は約75万円であった。75万円の全額であったか、半額であったか、記憶がないのだが、MH氏に出してもらった。そのお金を返したのか、返さなかったのか、それも記憶がない。ともかく、イギリス人の講師の研修を11日にわたって聞いた。

私はISO9001を指導する経営コンサルタントとして、第一号ではないだろうが、ともかく、少ない時期から始めた。ちなみに、日本で最初に非製造業としてISO9001の認証を受けたのは外資系企業であるが、私がある会社から紹介されてその企業のコンサルをした。

私は「売れっ子」となった。今となっては思いだすこともできないくらい多くの会社を指導した。

E社(きっかけ)

私の先輩コンサルタントMH氏は顔の広い人であった。MH氏は「秋田県の中小企業E社がISO9001をとりたい」という案件を私に紹介してくださった。
私が担当するのではなく、知人コンサルタントに依頼した。知人は先日まで大企業に勤めていて、定年退職したばかりであった。私より年上である。知人はコンサルのため毎月訪問した。私は3ヶ月毎に進捗を確認するために知人コンサルタントといっしょに秋田県へ行った。

ある日、3ヶ月ごとの進捗確認のため、知人といっしょにE社へ行った。会社へ行ってみると、大きな問題には至っていないが、いささか遅れている。私と専務取締役(社長夫人)との間で次の会話をした。
   左近:ちょっと遅れていますね
   専務:先生。○○先生のいうことがわかりません。
   左近:え? すごく有名な大学を卒業しているし、大企業に
いたひとですけど・・・
   専務:私たちに理解できる言葉で教えてください。
   左近:は?
   専務:秋田弁で話してくださいとは言いませんが・・・
私は「はっ」とした。ISO9001というのは国際的規格であって、決まったパターンのあるものであると思っていた。専務は、言外に、「秋田弁で社内文書を作りたい」と言うのだ。

E社(小さな脱皮)

社内規定を秋田弁で作成するというアイデアは私の心を占めた。秋田弁が重要なのではない、そうではなくて、中小企業の実態に沿った社内規格を作るということだ。私はこの専務の話を知人に話した。「社内文書はD社のおばちゃんが理解できるように作ってください」と。同時に、私は経営コンサルタントへ脱皮した。もちろん、小さな脱皮であったのだが・・・。

このころISO9001認証取得のコンサル案件はいっぱいあった。羽田空港から飛行機で地方の会社に行き、あるいは首都圏の会社に行って、コンサルをした。必ずしもD社の経験だけではないが、徐々に国際的規格ISO9001を日本の中小企業に合ったシステムにして適用しようと考えた。
しかし、この試みはダメだった。と言うのは、会社は審査登録機関の審査に合格しなければいけない。私(コンサルタント)が規格を恣意的に解釈してはダメなのである。私には相当多くのコンサル経験があるので「このように解釈して良い」と思う箇所はあるのだが、審査員から「それは不適合です」と言われると、私の責任になる。

少しずつ、ISO9001認証コンサルの仕事に違和感を覚えるにいたった。お金の儲かる仕事ではあったが、「自分の目指すものではない」という思いが芽生えてきた。

F社(きっかけ)

ISOと手を切るちょっと前である。
1996年、環境マネジメントシステム(ISO14001)が出てきた。私は「自分は品質をやっている。環境に手をだすことはお金儲けのようだ。このような節操のないことはしないでおこう」と思って無視していた。
あるとき、「市役所がISO14001の認証を受ける。職員に『節約しなさい』と言っても協力しないが、『環境の保全のために必要だ』というと職員は協力する」という話を聞いた。私はコンサルタント会社で原価低減を専門にしたのだが、その商品が花開く目途はなかった。それに代わる商品として「環境もありかな・・・」と思うようになった。

このころの時代背景を説明する。
1995年1月、阪神淡路大震災が発生した。3月、サリン事件が発生した。1997年、北海道拓殖銀行が破たんした。2000年には長銀がアメリカ投資会社に売却された。日本の経済はバブル崩壊の影響があった。マスコミでは勝ち組・負け組などというえげつない言葉が流された。

F社との関係ができたきっかけは次のとおりである。
中小企業大学校・東京校で経営者を対象にした研修「環境保全」の講師をした。その受講者に審査登録機関の理事がいた。研修終了後、彼は「一度、ウチへ来ませんか」と誘ってくださった。その理事からLPガスの卸し会社を紹介された。

F社(商品)

F社の業務はLPG(液化プロパンガス)の卸しである。

まず、エネルギー業界を説明する。
エネルギーには電気とガスがある。ガスには都市ガスとLPGがある。大学に電気工学科はあるが、ガス工学科がないため、私たちは電気のほうになじみがある。中には、電気のほうがエネルギー源として「上」だと思う人がいるかもしれないが、それはマチガイである。
業界は電力供給会社とガス供給会社が争っており、ガス供給会社のなかに地域ごと都市ガスとLPGとが棲み別けている

流れを説明する。
LPGは原油の生成物の一つである。元売り会社は、当社の場合、出光興産である。当社は出光興産から仕入れたLPGをガスボンベに充てんし、お店・家庭へ供給する。お店・家庭と直接つながっているのは燃料店である。しかし、燃料店が衰退している。そのため、LPGの拡販機能が崩壊しており、LPGの市場は電気に浸食されつつある。

当社は、卸売業ではあるが、集合住宅・戸建てが建ちそうな噂を聞きつけ、LPGの宣伝をする。いったん客になったお店・家庭にたいし、定期的にLPGを供給し、安全のモニタリングをする。

F社(コンサルティングと審査)

社長は意欲的だった。「まず、わが社が環境保全で先頭に立つ。LPG業界を牽引する」と言った。しかし、組織図がなかったし、計画の知識がなかったし、社内規定はなかった。私は「ゆっくり進める」方針でコンサルティングした。

たしか、毎月2日、訪問する約束であった。実際には4日ほど訪問し、2日分の請求をした。ある程度の実務(社内規定、マニュアルの作成)を私がしなければいけなかったためでもあるし、プロジェクトメンバーが環境に関する施設(例えば、ゴミの最終処分場、河川の改良など)の見学が織り込まれていたためである。

かれこれ2年近くかかった。審査を受けた。審査は二日間である。
審査が終わり、誰が言うともなく、いままで審査を受けていた3階の大会議室にプロジェクトメンバーが集まった。常務取締役が立って「ご苦労様」と発言した。
私が立ちあがり、「この2年間、私が皆さんに行ったことと、昨日・今日の審査員が言ったことが違う箇所があった。私の間違いであった。申し訳ない」と頭を下げた。私の発言を遮るようにして常務は「左近先生。明日からまた指導してください」と言った。これから、かれこれ10年、環境保全のコンサルを中心にして多方面のコンサルを継続した。

F社(まとめ)

一般にISOの仕事は6ヶ月から1年を要する。審査が終わればコンサルは終わりである。経営者は審査に合格するためコンサルタントを雇う。コンサルの目的は審査に合格することである。審査では合格するだろうから、その日が最後である。
しかし、常務取締役は「明日からまたお願いします」と言った。このとき、私は自分が知識から脱却し、実践の人(経営コンサルタント)になったと自覚した。「私はこの人たちと苦労を共にし、これからも一緒だ」との感慨がわいてきた。

成果とは何か。
私は「あ、うちの会社はあのコンサルタントのおかげで伸びている」と経営者が感じるとすれば、それが成果であると思う。そのように経営者に感じさせるために、数字も必要だし、従業員の育成も必要だし、新たな知識の紹介も必要だろう。何か一つの案件(F社の場合、ISO14001)で取り組むが、それだけでいいのではなくて、もう少し広い経営の範囲で考えるべきであろうと思う。

F社(まとめ。その2)

ずいぶん前になるが、経営コンサルタントの報酬について触れた。ここでも、ちょっとだけ、報酬に触れたい。

経営コンサルティングという商品には形がない。形のない商品にたいし、価格をつけることのできる経営者とできない経営者がいる。前者の場合においてだけこの商品は取り引きされる。後者の社会では成り立たない。

前者の場合において、どのようにして価値valueを価格priceに換算するのであろうか。すなわち、経営コンサルタントは「○○万円です」と提示するが、経営者はどのようにして「○○円」の妥当性を知るのだろうか?

一般の商品と同じである。
自動車にしても、冷蔵庫にしても、メイド・イン・ジャパンは少々値段が高くても売買される。メイド・イン・チャイナでは安い価格で取引される。経営コンサルティングの取引は、そのブランド力、実績、契約内容などで決まる。さらに時間の経過でその価値と価格との差異分析がなされ収斂する。

知識と実践

そろそろこのテーマを終わりにしたい。いささか駆け足で話したし、きちんと論理的に話すこともしなかったので、分かりにくかったのではないかと思う。具体的なことは避けて話した。11月に予定しているコンサルタント養成講座では、口頭なので、具体的な話をする予定である。

どんな小さな経験であっても経験は役に立つ。組織に所属すると、ある程度、仕事を選ぶというか、避けるというか、責任を負わない術があるものである。そのような態度をとる先輩、同僚がいるのであれば、あなたは黙っていればいい。批判する必要はない。しかし、厭なことほど、経験は後で役に立つ。

小さな経験を話す。
私は大学を新聞配達しながら卒業した。新聞の部数は、両手に30部ほどを持ち、2部・3部と指をいれて、5部と数える。それを続ける。会社で品質管理を担当するようになって、数量不足(または過剰)というクレームの対策をするようになった。私は「人間は5までしか数えることができない」ことに気付いた。5個を5組作る(25個になる)。それを4グループ作る(100個になる)。たいへん役に立った。

ここまで読んで下さった方々に感謝する。皆様のご活躍を心からお願いする。

          [中小企業診断士から経営コンサルタントへの成長] 終わり


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